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2007年8月11日
占いの論理展開も「ゲームのようなもの」です。
このエントリーを書く前にひとつ説明しとかないといけませんね。
大学時代に代数学の授業を受けてたのですが、そのときの担当だった某S教授が「数学の証明は定理や定義がルールになったゲームのようなものだ」という話をしていました。ここでいう「ゲームのようなもの」は、そういう意味でとらえてください。以下、このエントリでは「有限個で構成された特定の『ルール』の上での議論・論理展開」を「ゲーム」、と解釈します。
さて、こんなblogを運営してる以上、私は占星術研究家としても生きています。
占星術も、この定義に従えばゲームです。記憶が間違ってなければ、大学時代前半に見たNHKの「ソリトン」って番組で鏡リュウジさんも「占星術はゲームだ」って仰ってたと思います。
確かに、単純に科学的推論を働かせれば出生時の天体の位置関係がその人の一生を左右する、という命題は(少なくとも二値論理では)Trueにはなりません。しかし、占星術ではこの命題を一番最初の「ルール」(数学的には公理が一番近い)とし、サインのルール、ハウスのルール、天体のルール、アスペクトのルールを用意してその上でさまざまな論理展開が行われているわけです。
で、この4個のルールをどこまで使うか、がいわば流派の違いです。カードゲームっぽく言うとエディションの違いってやつでしょうか。たとえば天体は7個しか使わないローカルルールを導入すると古典占星術になりますし、ハウスは無視してアスペクトのみ考えるとコスモバイオロジーに近くなります(このパラグラフはかなり概念を簡略化して説明してます。専門家の皆様お目こぼしを)。
この構造はほかの占術でも同じです。
たとえば、「出生時の干支暦表現がその人の一生を左右する」という公理に対して「生年月日までで考える」というルールを加えたものが算命学、「出生時刻まで考慮する」というルールを加えたものが四柱推命になります。さらに、四柱推命のルールに「性格は生日干支十二運が規定する」というルールを付け加えたものがこのサイトでネタにしている性格類型論の基本構造になります。
同様に、姓名判断も「姓名の文字列、およびその画数配列がその人の運命を左右する」という公理の上にすべてが構築されるわけですね。たとえば「画数は本字で取り、主に画数配列を重視、因子を5個とする」のが熊崎式ですし、「画数は基本的に新字とし、主に画数配列を重視するが因子を9個とする」のが桑野式です(ここでは第1ルールのみ書いていますので、本当はもっとたくさんルールがあります)。
そして、すべての占いを使う人たちはそのルールのうえで議論してるわけですね。当然、私も原則専門の方と話をするときはコンテキストを重視した範囲内で相手の方のルールの上で話をするようにしています。これ、結構大変だけど面白いんですよ。
ということで、何が言いたいか、というと、
人の「ゲーム」のルールに横槍を入れるな!
ってことですな。
確かに、熊崎式のルールでは9は凶数ですし、熊崎式のルールに従うかぎり確かに実効性はあるのですが、当然別の考え方もあるでしょう。むかし出ていた銭天牛さんの姓名判断の本では9は火星になるから凶数(誕生日で変化するけど)ですが、田上数霊や激数占い(泉谷綾子さんの)では9は破壊数でない限り凶数にはなりません。さらに、紅星天喜占命学では画数そのものに吉凶は考えません(総格だけあったかな?)。いろいろ実験した感じでは、それぞれのルールにきちんと従って判断すればきちんと合った答えを出してくれます。
でも、少なくともあるルールに従っている人に対して、「あんたのルールは本質的に間違ってる」ということは、完全にマナー違反です。そのルールがその「ゲーム」のなかでルール違反を犯しているか、文献考証的 or 時代考証的に間違っていない限り(たとえば六壬で月将を太陽星座で取るのではなく月支で取るのは、近現代六壬では時代考証的に間違いです)。
それとも、特定の「ゲーム」以外は認められないんですかね。
そんなことはないと思うんですけど。
Monsieur l'abbé, je déteste ce que vous écrivez, mais je donnerai ma vie pour que vous puissiez continuer à écrire. from Wikiquote(http://en.wikiquote.org/wiki/Voltaire)
できればいつもこのような心境でいたいですな。
まぁ、私もむかしはいろいろ理論闘争したこともあるですが……。若気の至り、ってことで。
投稿者:astsakai 2007年8月11日 22:04